SUMMARRY
出身地
1969年 大阪府堺市生まれ
学歴
1976年 金岡保育園卒園
1980年 金岡小学校分校
1982年 金岡南小学校卒業
1985年 金岡南中学校卒業
1988年 清風南海高等学校卒業
1992年 神戸大学経営学部会計学科卒業
会計学士
2006年 大阪府立大学経済学部
経済学研究科博士前期課程修了
経済学修士
職業
税理士業 行政書士業 宅建業ほか
職歴
1992年~1997年 清稜監査法人所員
1997年~2002年
指吸会計センター㈱
阪口昌弘税理士事務所
澤田直樹税理士事務所
所員
2002年~ 清稜監査法人非常勤職員
2002年~2006年
髙橋政夫税理士事務所所員
2003年~ 新谷洋史行政書士事務所所長
2006年~ 新谷洋史税理士事務所所長
2007年~ ㈱bang-up代表取締役社長
2015年~ 宅建業開業
資格
税理士 行政書士 宅地建物取引士
2級FP技能士 運転免許
所長新谷洋史プロフィール
1969年(昭和44年)8月7日大阪府堺市生まれ
父はテーラー、母は和文のタイピスト。両方とも見事に斜陽産業。
写真は生後3日目の私。
1970年(昭和45年)3月指吸会計事務所大阪支店にて。0歳。
1971年(昭和46年)正月。 1歳。
1973年正月。3歳。
1973年(昭和48年)堺市立金岡保育園入園
家が恋しくて午後3時になると脱走するも家に帰ると叱られるため途中で保護されるという事件を繰り返す。
現在、金岡保育園は当時の場所にはない。
1976年(昭和51年)堺市立金岡小学校入学
小学校1年生から堺市立大浜体育館に柔道を習うため通う。以後6年生まで続ける。弱かったが正義感が身についたように思う。
1981年(昭和56年)大浜体育館にて。
1980年(昭和55年)
4年生の時に金岡小学校がマンモス校のため、金岡南小学校と分校となる。以後金岡南小学校に通う。
小学校4年生のときに軟式野球チーム金岡ジュニアパイレーツに入れてもらったが、既にチームができていて、溶け込めず辞める。
よく近所の空き地で父親にキャッチボールしてもらった。父は広島市出身。原爆で焼き出されて大阪へ。被爆者。当然カープファン。私も弟もカープの帽子をかぶって、阪神ファンの友達と柔らかいボールとカラーバットでよく遊んだ。夕方暗くなるまで。当然、今もここ大阪堺でガチガチのカープファン。
福山さんと同じ被爆2世。ええように言うわ~。
パイレーツ退団後すぐに町内会のソフトボールチームに入れてもらう。5年生の時にはセカンドでレギュラーになり、金岡南小学校では優勝。東部第3ブロック大会では準優勝。
5年生の時にはクラスでいじめを受けるが、背負投げで投げ飛ばし、いじめを回避。担任の目の前で投げ飛ばしたが、お咎めもなかった。その後急速にいじめグループは力を失ったが、私は特に人気者になることもなかった。
6年生の時は町会ソフトボールチームのキャプテンを任される。2番キャッチャー。
5年生からは学校でバスケットボール部に入れてもらって楽しくバスケをしていた。
勉強はオール普通。昔はよくできる、できる、がんばりましょうではなく、できる、普通、悪いだったような…。普通って!!
1981年(昭和56年)金岡南小学校ソフトボール大会にて。
1982年(昭和57年)堺市立金岡南中学校入学
中学1年の中間テストの成績は500点満点中250点。でも、担任面談では堺では公立トップの三国ヶ丘高校を志望と豪語。怖いもの知らずとは恐ろしい。鼻で笑われた。「まぁ、そうでしょ。」
というわけで、中学校では、帰宅部に。
当時の3年生は怖かった。特攻服着て学校来てた。でも、いじめられることもなかった。
塾は今はなき西岡塾、塾長怖かった。おかげで数学と英語はまあまあ分かった。
3年時に西岡塾がつぶれたため、小島塾に、小島塾の塾長も怖かった。みんなスリッパの音でビビッてたもんな~。
塾のおかげで成績もある程度伸び、中学3年生の3学期の期末テストでは500点満点中自己ベスト444点を記録。
何とか清風南海高等学校を併願で受験することになる。
1985年(昭和60年)清風南海高等学校に合格。
しかし、進路相談で、三国は無理、泉陽も無理、鳳も無理、泉北、堺東も怪しいといわれ、東百舌鳥か金岡かならなんとかと言われる。とほほー。
家が斜陽産業のため、母からは公立に行ってほしいといわれるし、悩みに悩んだ結果、玉砕覚悟で泉陽を受験。玉砕!!2人しか落ちないうちの1人に見事当選。涙涙。
改めて、清風南海高等学校のお世話になる。
学費はすべて奨学金。国、大阪府、堺市、の育英会のお陰でなんとか高校に通えることに。奨学生。現在はすべて返還させていただいた。おかげさまで。
清風南海では悔しさのあまりまた帰宅部になる。
というか清風南海は基本帰宅部かな。
まぁよく頑張った。3年生の時の1番頑張っていた時期は朝6時半起床、8時学校到着、8時半まで平岡宕峯大校長先生のありがたい説教を毎日拝聴。般若心経をあげる。8時半から70分授業が7限、一日8時間10分授業。5時ころ下校。6時ころ帰宅。食事して7時から午前3時まで、途中9時から30分お風呂、自宅学習時間7時間半、計15時間半勉強してた。おまけに電車の中でも参考書見てたもんな~。我ながらすごい。両親からももういい加減にしなさいと言われた。というか言わせた。ガッツ。というか家狭いねん。6帖二間に家族4人てだいぶ無理あるやろう。
清風南海高等学校で学んだこと
1988年(昭和63年)神戸大学経営学部に補欠で合格。そして追加合格。嬉しかった。これでもう解放される。一生勉強しないと心の中で誓う。これが間違いのもと。
ちなみにセンター試験の点数は自己採点で800点満点中649点、ボーダーが640点だったことを覚えている。
清風南海での成績は文系80人中30番くらいではなかったかと思う。
神戸大学では、勉強しないでもなくするでもなく、単位だけは取って卒業したという感じだった。会計学学士。
ちなみに神戸大学では、国、大阪府、堺市の奨学金に加え、授業料免除も受けた。完全に公に育てていただいた。合掌。ちなみにこちらも返還済。おかげさま。
ゼミは武田隆二ゼミ。ゼミ生には優秀な先輩をたくさん輩出している。神戸大学の武田隆二ゼミ最後の卒業生。
一応、神戸大学軟式野球同好会に所属。補欠。
あとから思うに大学時代に高校時代くらい勉強していたら、もう少し人生違ったかもとは思う。しかし、確かに違うかもしれないが、幸せかどうかは別問題。
バブルだったし、だれでも4年生夏には1部上場会社から4~5個は内定をもらって、解禁日には拘束される時代。
在学中に4~5人は公認会計士試験に合格していたように思う。
1991年(平成3年)
父、他界。ますます実家は貧しくなる。このころ母は一番しんどかったかと推測する。人生初めて自分で遺産分割協議書を作成し、自分で登記申請した。お金ないからね。
私も例にもれず、外資系コンサル会社と都銀、そして小さな監査法人から内定を頂く。当然、公認会計士資格なし。しかし、そんな時代だった。
1992年(平成4年)清稜監査法人に入所。
1年目から日本全国を出張させてもらった。仕事は楽しかったが公認会計士試験はさっぱり。
1993年(平成5年)
公認会計士試験を諦め、税理士試験に鞍替え。簿記論・財務諸表論合格。
1994年(平成6年)~1996年(平成8年)
主に幼稚園の振興私学助成法監査に従事。税理士試験法人税を受験するも毎年不合格。日本全国を飛び回らせてもらった。北は青森県から南は宮崎県まで。
1995年(平成7年)ころ
テニスを始める。週1テニスでは上達しない。
1997年(平成9年)清稜監査法人退所。指吸会計センター株式会社入社。
1997年(平成9年)~2002年(平成14年)
税理士事務所は指吸グループの阪口昌弘税理士事務所、澤田直樹税理士事務所にお世話になる。
零細企業及び幼稚園会計の担当者となる。時々、上場会社や優良法人にも所長に連れられて伺う。
相続税の申告書作成も経験。
税理士試験は1998年(平成10年)法人税法合格。
2002年(平成14年)指吸会計センター株式会社退社。澤田直樹税理士事務所退所。税理士試験に専念を決意。
2002年(平成14年)~2006年(平成18年)
しかし、経済的理由から伯父の高橋政夫税理士事務所の世話になる。
また、清稜監査法人にも非常勤職員としてお世話になる。清稜監査法人には現在もパートとしてお世話になっている。仕事は幼稚園会計監査の補助。
2002年(平成14年)
税理士試験後、8月ごろ近所の本屋で行政書士という国家資格があることを初めて知る。資格ガイドブックには記帳代行業をすることは認められるとあり、当時記帳代行を依頼していただける顧問先が数件あったため、受験を決意。2か月の受験勉強でなんとか本当に合格最低点で合格。しかも1問は採点除外。ラッキーだったのかそうでなかったのか?
大阪府行政書士会堺支部の皆さんは、本当に良い人が大半で、私としては居心地の良い会だ。年に数件は行政書士の先生方からご紹介を頂戴している。「毎度ありがとうございます。」
2002年(平成14年)~2003年(平成15年)
税理士試験
消費税法、相続税法を受験するも不合格。特に相続税法は2002年よりも成績が落ちたためショックで税理士試験を断念。なんと消費税については通算10回以上受験したが、すべて不合格。恐ろしい試験だった。最後はイップス。
2003年(平成15年)
新谷洋史行政書士事務所開設。現在に至る。
当時ご依頼いただいた業務(平成15年~平成18年)
2004年(平成16年)大阪府立大学経済学部経済学研究科に入学
社会人コース。山下和久教授のゼミに入れていただき、税に関する研究をする。
本当に救われた。なんとこちらも奨学金&授業料免除を受けた。現在奨学金は返済中。感謝。
2006年(平成18年)大阪府立大学経済学部経済学研究科博士前期課程修了、経済学修士。税理士試験2科目免除。
10月ころ大阪府行政書士会堺支部の支部旅行中に母から電話があり、やっとやっと税理士試験をパスすることができたことを知る。合格したわけではないが、免除になった。なんとも複雑な気持ちだったが、嬉しくて涙が出てぼろ泣きしたことを覚えている。
税理士登録
税理士登録しようと申請したが、面接官はいわゆる塩対応だった。「今回の申請では君が一番の問題児だ。」だって。一番最後まで残された。
理由は先に行政書士登録したため偽税理士行為をしていないかという疑いだった。
2003年(平成15年)から2005年(平成17年)の確定申告書、総勘定元帳、仕訳日記帳を調べ、「きっちりつけてるやん。」だって。
挙句には税理士の伯父に税理士業務はさせていない旨の念書まで提出させられた。
これで登録が認められないなら、職業選択の自由を主張して法廷闘争と思っていたところにやっと登録が認められた。
新谷洋史税理士事務所開設。現在に至る。
伯父の顧問先様もほとんど引き継がせていただいた。ホッと!!
事務所は父の洋裁店を改装し、事務所として使用。居宅兼事務所。
2007年(平成19年)
株式会社bang-up設立。代表取締役就任。主に会計業務を受注。現在に至る。
2010年(平成22年)
母方の伯母が亡くなる。伯母の居宅を母が相続。相続人は伯父と母。このときも遺産分割協議書を作成させていただいた。母は不動産をまた伯父が預金2,000万円以上を相続した。
2011年(平成23年)
伯母の元居宅を取り壊し、居宅兼事務所を建設。
堺市北区百舌鳥梅北町に引越し、事務所も同所に移転。税理士の伯父も廃業し私の事務所で手伝ってもらうことになる。
2012年(平成24年)
高橋政夫元税理士の伯父が亡くなる。本当にお世話になった。ありがとう。
あの2,000万円はいずこへ?もしかして、教会へ寄付?宗教は恐ろしい。伯父はこのころクリスチャンになっていた。伯父の宗教歴 浄土真宗本願寺派→創価学会→上野芝キリスト教会。
私が徳島出張中、父方の伯父が、一人で、こたつの中で亡くなった状態で母に発見される。
このときの相続人は私と弟とそして伯父の腹違いの姉(私から言うと伯母)。この伯母とは全然面識がなかった。広島に住んでいたため行って、事情を説明しこちら提案の代償金で話を飲んでいただいた。
2013年(平成25年)
高橋政夫の娘から伯父の居宅を売買により取得。売買代金全額を信用金庫でキリスト教会に速攻、寄付。びっくりするわ。宗教は怖い。私は浄土真宗本願寺派の信者。
2015年(平成27年)宅地建物取引主任者試験合格。宅建業免許取得。現在に至る。
2016年(平成28年)
やっと、結婚。
2018年(平成30年)
認定経営革新等支援機関となる。
2020年(令和2年)
舞鶴出張中に母道子が倒れ、5日後他界。最後に交わした言葉は、「ほな、行ってくるわ。」「気を付けて。」だった。
2021年(令和3年)
現在52歳。
税理士、監査補助者、行政書士、宅建業、経営コンサルタントとして活動中。
業務
令和3年9月13日中小企業庁「ファイナンシャルアドバイザー及び仲介業者」に登録。
令和3年9月23日彦根城にて
2022年(令和4年)
現在53歳。
1992年大学を卒業してから広い意味での職業会計人として30周年、ありがとうございます。
令和4年8月12日長浜城にて
令和5年4月6日(木)ズームスタジアム広島外野レフト砂かぶり席にて。